アーサーおじさんのデジタルエッセイ596
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 小さい頃から、いったいいくつの映画を見ただろうか?
			映画というとワクワクしたくせに、大人の顔がアップで喋ってばかりいると、眠りこけてしまい何も見ていないこともあった。
			白黒の映画の時代から始まった。
			そのうち天然色になって、画面がワイドになった。
			 こんなことを書くと、随分と昭和っぽい話みたいだが、まあ、その通りなのだから仕方がない。
			驚いたのは70ミリフィルムというものの出現であった。
			実際に7センチもの幅があったわけで、現物のフィルムを見たことがあるが、モバイルの画面みたいに大きい。
			これは「アラモの砦」とか「ベンハー」がそうだったに違いない。
			 中学生の頃は、ディズニーの劇場映画でヘイリー・ミルズ主演のものを仲間と見に行った。
			当時のアメリカン・アイドルである。
			大きい巻き毛の、鼻先が上を向いた元気のいい女の子。
		

 高校生では学校指定の「サウンド・オブ・ミュージック」。
			それから、浪人時代から、大学生になると、一人で二本立ての映画を二番館でよく見た。
			当時は今ほど、大作の前宣伝をしない時だから、ましてマニアでない限り映画のタイトルだけで、その内容は分からない。
			映画館に「入ったところ勝負」である。
			タイトルなど見ない。
			いったい何が始まるのか?
			 だいたい、誰がでるのか、どんなストーリーなのか何も知らずに見た。
			最初のシーンでもまるで分からない。
			いきなり闇夜の潜水艦とか、女性の下着のシーンとか。
			 ところが、感動したり、面白いと思うものは、実はこういう「何も予見がないもの」であったことは間違いない。
			 見たはずの膨大な映画。多くの映画は記憶にない。
			今、思い出せるのは、世間の宣伝で掘り起こされるタイトルかもしれないが、あの未知と出会う驚きは、タイトルも記憶せず、埋もれてしまったはずのマイナーな映画がくれたものだった。
			記憶には残っていないくせに、実は無意識の棚には置かれている。
			経験の片鱗として存在している。
			まるで、自分の本当の経験のように、意識せず応用できる脊椎の記憶になったのだ。
			 森の中の、深い足元の腐葉土、わずかな葉を持ちあげると、その裏側にはびっしりと小さな虫が棲んでいる。
			まるでその腐葉土のように、名もない映画達は、わたしの無意識になったのだ。
			              ◎ノノ◎
			              (・●・)
			               
         「また、お会いしましょ」  2012年7月21日更新