アーサーおじさんのデジタルエッセイ593

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第593 エッセンスでは生きられない


 世の中の多くの書物がどうしてあんなにも頭に入らないのだろう。
なぜ何度読んでも、忘れてしまうのだろう。
 若い頃、塾の講師をしていた友人がばっさりと言いきっていた。
「社会の地理などは、受験のエッセンスにすればたった一日で全部教えて合格させることができる」私は嘘だと言った。
覚えられるものではない。
「覚えることなど多くない。集中すれば一日で出来る」私には信じられなかったし、その真意も分からなかった。
何かあるとこの言葉を思い出し、そんなものだろうかと不思議に思った。
 長い時間を経て、私も様々な勉強をくぐりぬけて来て、どうにか反論できる気がしてきた。
あれは「初心以前の人間」というものを忘れてしまった発言ではないか。
というのは、我々に、「車はハンドルを両手で握り、前方に見える希望の方角へ適切に回せば運転できる」というようなものだ。
なんだ当たり前ではないか!
でもどうしてそれが通じるのか?
それは言葉の背景に膨大な経験知がお互いにあるからだ。
もし、宮本武蔵を連れてきてそう言えば、剣豪に運転ができるか?
まず彼は車を知らない。
見たことも乗ったこともない。
何に役立つか、目的もその使用イメージもない。
ましてハンドルと全体の関係が何なのか分からない。

 そう、我々には既に膨大な「体験」とそれによる「推論」があり、実際の「教育」がある。
そういうデータは膨大な量を脳に打ち込んである。
そしてその統合として初めて実地訓練が重ねられ、データが制御のために統合されて習得されるのである。
刀一本だって同様である。
赤ん坊に見せたら、その掴み方さえ知らない。
イメージがないのである。
怪我するに決まっている。
従って、まず全体像のイメージ、視覚的な了解、単語と触覚、そこに内蔵されている意味。
そういうものを忘れながらも吸収する。
また忘れる。
必要不可欠なことだけが身体に修得される。
そして少しは応用される。
 ドライバーに機械上の構造理論の座学を、1年間勉強させ、筆記試験で合格させても、その後の実地では、習得は期待できない。
赤ん坊が歩く事を覚えるのに長い時間がかかるのは、座学で勉強する力がないからではない。
「足」の概念が身体にないからだろう。
膨大で不毛な経験や背景があって初めて「エッセンス」が読み取れるのであり、初心の者、初心以前の人びとに何かエッセンスを伝えるというのは、無理である。
私の友人は、浪人もしたし随分と無駄な生き方もした。
然る後であればこそ、「一日でエッセンス」が、と言ったが、それは「それだけ無駄な勉強をした自分」にとって、という意味であろう。

              
             ◎ノノ◎
             (・●・)
               

       「また、お会いしましょ」  2012年6月9日更新


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