アーサーおじさんのデジタルエッセイ597
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 暑い夜明けに、顔のどこかで何かを感じた。それは耳だ。
小さな音がする。
ウィーン、ウィーンと聞こえて来る。
ああ、離れた部屋の扇風機が首を振っている。
布団にくっつけた耳に床を通して、そこら中の気配が伝わって来るのだ。
直接は聞こえない音でも地面を通してなら、感じることが出来るということだ。
十数年も前の新聞の切り抜きがあって、野添憲治という人のコラムに「行き先が見えなぐなったら土に顔をつけれ」と書いてある。
「ぐ」はその人の父の発音である。
私はこの言葉が好きで、時々思い出す。
人生でしばしば迷うことはある。
その時に取る方法はあまりない。
ヒントが欲しい。
誰かに訊ねたい。
しかし誰もいない。
そういう時には、耳を土に付ける。
小さな音がする。
谷川の水音かもしれない。
人の声かもしれない。
夜明けの囁きかもしれない。
本当に必要な情報は地上にはないのである。
人の生きていく根本のレベルに帰るしかないのである。
余計な雑音を切り捨てて、そこから考えるしかない。
人は孤独だし、孤独な隣人の存在を感じるしかないのである。
そういう抽象的な諫言にも聞こえたのだ。
実際にはこのコラムは、父子が緊急の必要から、長い森の夜道を歩くことになり、困った時に父がそうすれば、どちらに光を感じ、行くべきかを確信できると教えるものであった。
その時に初めて、著者が父への尊敬を覚えたということである。
私は光だけではないと思った。
やはり私たちは多くの文明に包まれ、多くの豪華な情報に囲まれて、自分のための方向が見えなくなっているのだ。
その時に、どこか、足の立っていた場所に戻るということがどんなに必要だろうかと、再び信じさせる言葉であった。
◎ノノ◎
(・●・)
「また、お会いしましょ」 2012年7月28日更新