アーサーおじさんのデジタルエッセイ559
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 一度、新宿の地下鉄構内で出口案内を見るため立ち止まると、後ろから思い切り頭に激突を食らった。
			振り返ると、顎を押えて痛そうにうめく背の高い男がいた。
			思わず謝ったのだが、なぜこういうことになったのか合点がいかなかった。
			昨日の帰り道にふと気がついた。
			目の前を女学生が向かって来る。
			こちらに正面からぶつかりそうであるが進路を変えない。
			仕方なくこちらが横によけて歩いた。
			携帯を見ながら歩いているのだ。
			そうか!おそらくあの男は私の後ろで携帯を見ながら歩いていたのだ。
			盲人と同じであるから、激突するまで気がつかないのだ。
			車で言うと前方不注意であるが、こちらもブレーキランプを表示したわけではなかったから仕方がない。
		

 回りを見回すと、誰もかれも歩きながら目の前に携帯を翳しているのだ。
			携帯使用はこんなにも増えてしまった。
			彼らは一種の視感覚障害状態にある。
			それを我々不携帯(不使用状態)の人間が、障害物レースのように除けながら歩かねばならない。
			 かつて小学校の校門のそばには、背中に薪を背負い和綴じの書物を読みながら歩く、二宮金次郎の銅像があったものだ。
			あれは子供の鑑として建てられていたはずだ。
			そういう意味では街は金次郎ばかりあふれている。
			純粋に歩く人は貴重になっていくかも知れない。
			「ながら」は日常であり、その大半は携帯である。
			それに比して尊徳氏なら、往時は田舎道。
			せいぜい畔を横切る牛にぶつかる程度であろう。
			おまけに書物は大フォントの墨字である。
			目にも悪くはなかろうと考える。
			 この勢いで渋谷などを、当時の二宮尊徳さんたちに歩かせたらどうであろうか?
			 あちこちで激突。怪我人が続出である。もう「道徳的」にも許されないだろう。
			そうこう考えていると、スカートを翻した女性が、目の前を携帯を見ながら片手で自転車を運転しながら走り去った。
			  
			               !
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			              (・●・)
			               
          「また、お会いしましょ」  2011年9月18日更新