アーサーおじさんのデジタルエッセイ557

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第557 カタジケナイ倶楽部


 水戸黄門さまが終わってしまった。
どちらかと言えば、あの時代考証の加減には批判的であった私ではあるが、終わってしまうと聞けば、文化の継承にやや不安を感じる一人である。
 ところで、私が夢見ている文化運動がある。
 在日外国人達の、微妙なことばのニュアンスはしばしばとても魅力的である。
デーブ・スペクターやロバート・キャメロン先生は実に流暢で巧みであるけれど、そうではなくても、なんとか失って欲しくない美しいニュアンスを、さらに生かす方法のことである。
 それは、彼らなら敬語のルーツに触れる言葉を発することが許されるのではないかというファンタジーである。
 私の友人達には、漢字を自在にあやつる外国人もいる。
フランスのM氏やアメリカのAさん、この人達がただ単に日本に溶け込むだけなのは残念な事である。
で、私はアリゾナ出身のAさん(女性)に言った。
「ありがとう、と言うのはつまらない。
お願いだから『かたじけない』と言うようにして!」
 なるべく、真剣な顔で肩手を前に出して、そう言ってほしいのである。
そう、これを何と言おう。
文化の風化を食い止める運動である。

 ちょうど、アリゾナの岩が風化を妨げて高い岩盤として残るように、彼らに守ってもらうのである。
これを「カタジケナイ運動」と呼ぼうか。
他にもある。
「まっこと恩に着ます」
「感謝に堪えません」
「身も心も震える思いだなあ」
「地獄に仏とはこのことですなあ」
「恐悦至極に存じます」
「仏の御加護としか言いようがございません」
「有り難きしあわせです」
「冥途の土産に致します」
 こんな具合であろう。
 西洋人の風貌で、たとえば会社の受付で名刺を差し出して、「社長のご尊顔を拝しとうございまして、参上つかまつりました」と言って、誰が怒るだろうか?
 とにかく、こうなったら彼らに日本の言葉文化を継承してもらうしかないのだから。
 崩れた日本語会話に「お上に代わっておしおき!よ」
  

             ◎ノノ◎   
             (・●・)
               

         「また、お会いしましょ」   2011年9月3日更新


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