アーサーおじさんのデジタルエッセイ527
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 人は自分の持っている知性で生きて行くのではなさそうだと思えることがある。
			世界の論理は知性で説明できない。
			論理でさえ知性ではないというのは、矛盾に聞こえるかもしれない。
			 昨日の夢から話そう。
			 尾篭で言いにくい内容ではあるが、夢だということで聴いてもらいたい。
			私はトイレを探していた。
			繰り返しよく見るテーマではある。
			しかし昨日は重かった。
			見つからないのである。
			旅館のようなところに探し出すと、午後の1時から1時半とかなんとか、わずかな使用時間が書いてある。
			とても間に合わぬ内容であった。
			別の場所は危険なところにある。
			また別の場所で見つけたが、そこに誰か哲学者のような冷たい若者が現われて、眉根に皺を寄せながら、何か使用が許されない理由を厳しく言う。
			私はまことに重苦しく辛い耐えられない気分で、その夢から逃れたかった。
			夢から覚めるとそれほど切実ではない。
			行きたかったのは大便の方である。
			そういえばこのところ何度もトイレに行き、うまい通じがあるまでかなり時間が掛かるのであった。
			それはこちらの身体の事情ではないか。
		

 しかし夢というものは、なんと言うか、全て「外部の事情」で行かせてもらえない。
			「理不尽な他者の事情」に置き換えられていたではないか。
			そこには、こちらの願いを微塵も介さない動かない壁のような我儘な人物が登場して、交渉の余地がなかったではないか。
			 布団の中で、何かにぶつかったような気がして暫らく考えた。
			夢のメッセージ。これは知性の処置ではない。その下で何かが叫んでいるのだ。
			 夢は、事実ではないが、身の丈で起きた事件の「真実」として存在する。
			 ひとつだけ事例を述べる。
			両親や片親と、何らかの事情で別れることになった子供たちが、大人になってから「捨てられた」気分を持ち、そしてその底辺に「自分は嫌われて捨てられた生きる価値のない悪い子」なのだと思う。
			そうではなかったはずだ、親も苦しみ泣いていたはずだという記憶をすっかり失い、なぜ嫌われたのかと考えるようになる。
			子供は一回の親の説明で生きていくのではなく、何千回、何万回という夢に育てられて大人になるのだから、記憶が刻んだはずの「知性的説明」は消え、心の底辺の「拒否感」と対話しながら生きているのだということ。
			そういう風に傷を刻むのだと言うことが、分かった気がした。
             ◎ノノ◎
			              (・●・)
          「また、お会いしましょ」  2011年1月22日更新