アーサーおじさんのデジタルエッセイ526
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む どこかの民族が全身に白い泥で化粧をしているのを見た。
			白線で体中に入れ墨のように描いていく。
			鏡を使わないのである。
			そして最後に顔だが、これは他者と互いに描きあうのである。
			背中も同じである。
			仕上げた姿はどうやって確かめるのだろうか?
			池に映してみるのか。
			ああ所詮、自分は見えないのだ。
			 私たちは自分の顔や姿についてのイメージをしっかりと持っている。
			それはおそらく日に何度も眺める「鏡」のお陰である。
			あるいは写真や映像を何度も何度も見たことがあるからである。
			猫や犬は自分のイメージを持たないだろう。
			猫が「私は可愛いでしょう?」とは思わないだろうが、飼い主の反応や他者の反応で「それらしい」概念は持っているだろう。
			とすれば彼らにも「鏡」となる他者がいない時には、自分のイメージは存在しないことになる。
			人もそうである。
			長い時間、無人島で過ごせば自分のイメージは薄いものになるだろう。
			とはいえ、生きて活動する自分のイメージを失うことは現代ではほとんどないだろう。 
さて目の前には自分の手が見える。
			オフィスの風景もある。
			それは見える。
			しかし顔をまったく動かさずに頑張って上方を見ると、視界の限界より上は暗い。
			右も左も同じ。だから自分の顎や耳を見ることは出来ない。
			右下、左下に鼻の出っ張りがうっすらと見える。
			この丸い穴が左右上下の限界である。
			ニューヨークの自由の女神の目から体を乗り出して見ているようなものであるが「顔」を見ることはできない。
			頑張って目をひっくり返すと、頭蓋骨の内側の血管が見えるかもしれないが、そのようには動かない。
			また目を閉じると暗いのは目が見えなくなるのではなくてマブタの内側を見ているだけである。
			 このように本来は「自分」の顔を見ることは出来ない。
			自分の顔は「創られた」ものである。
			「自分」のイメージも創られたものである。
			これは哲学的な世界である。
			 このように「創作」としての自分のイメージを持って私たちは生きていく。
			赤ん坊の頃は自分の顔を知らないのに、いつの頃からか「自分を見つめる他者である自分」と共に生きて行く。
			とすれば、自分の頭上に空想的なもう一人の自分を持って暮らすのが「人間」あるいは「文化人」なのかも知れない。
			 想像だけれども、それゆえ最初の他者である「両親」とその「頭上の他者」は不可分な関係になる。
			自分を見る自分が(最初は)両親の意識に近いのはあり得ることである。
			 心理学ではこの自分を監視し指導する自分を「超自我」と呼ぶが、「超自我」はしばしばほとんど親の考えを持っている。
			これは人生的に良い面と悪い面を持つ。
			超自我である「親」の視点に助けられる人がいれば、苦しんでいる人がいる。
			この超自我をスキルアップしないと人生はうまく行かない。
			ひとりの中に生きている社長と社員のようなもの。経営者が間違った考えでは危険な人生となるだろう。
              ◎ノノ◎   
			              (・●・)
          「また、お会いしましょ」  2011年1月16日更新