アーサーおじさんのデジタルエッセイ366
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 先日、あるセミナーで講義を聴いていて、非常に腹が立った。
			歴史的にはその学問の草分けの学者らしいのだが、なんとも、なんとも聞いていられない。
			まったく参加者の時間を無駄に潰してしまうようにしか感じられない話し振りである。
			しかし、全く腹を立てていても仕方がないので、このティピカルと考えられる講義が一体どのように虚しいのか分析してみることにした。
			するとそこには絶対に避けたい反面教師としての要素が、豊かに、輝くように鏤められていたのである。
			その分析はおそらく無駄ではないだろう。
			もちろん本来の目的は達成できなかったのだが。
			 ところで、ぎっしりと薀蓄や緻密な分析が並べられているにも関わらず、虚しい気がする書物というものがある。
		

それに比べて、一行一行、一文字ごとが、熟れた果物でも食べるように美味しく豊かに感じられる書物もある。
			何が違うのか。キーワードは「評論」と「サバイバル」の差である。
			学問や研究の対象を、安全な離れた場所から、解説者のように評論している文章。
			これは数行で眠くなる。
			一緒に集中することはできない。
			それに比べ著者が、その場所に体を預け、必死に生き抜こうとして五感と知恵を働かせている文章。
			これは伝わるのである。
			私たちは「自分が生きるために」何かを教えてくれるものに時間を預けたいと思うのである。
			 前述の先生に比べれば、同業種の河合隼雄先生はかつて大学の現役時代でも、廊下に学生が溢れるほど人気の授業であったらしい。
			もちろんまだ著名でないころである。
             ◎ノノ◎。
			             (・●・)
         「また、お会いしましょ」  2007年6月24日更新