アーサおじさんのデジタルエッセイ295
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 米ツアーをやる女子プロゴルフの宮里藍も、「早くアメリカで自分の居場所を作りたい」、その壁が「英語」であるという。
それは韓国などの他国の選手も同様である。
海外で戦うということは、実は外国語と戦うという二重作業でもあるわけだ。
そういえばサッカーの中田がイタリアの記者会見を、自分の耳と口で行うのは、やはりすごさを感じさせることである。
国際舞台では、もはや本業の力だけで戦うということは実は考えにくい。
ふと思う。ピカソは確かスペインのカタルーニャ出身である。
有名になるのはパリである。
売れない頃は青の時代といわれ、「洗濯船」に通って、ロシアのシャガールやフランスのマチス、ブラック達と論争を重ねた。
有名になった彼は、やがてナチの爆撃に抗議すべく、ゲルニカを描いたはずだ。
さらっと書けば、そこではまるで全員が同じ言葉を話していたかのように映像が紡がれるが、言語はバラバラである。
誰もが国を変えるたびに言語と戦っていたはずである。
明治時代に禁制鎖国のチベット潜入をもくろんだ大阪の僧、河口慧海は最初中国人を装って、インド経由でダージリン。
そこでチベット語を習う。
そうしてネパールから目的地に潜入、そうやって行き先で言語を習得しながら目的地に入った。
徒歩でヒマラヤ越えをしたこともすさまじいが、この言語のヒマラヤを何度も越えていたこともすさまじくないか。
大物というのは、現場では強烈な戦いだったはずの言語課題を同時に戦え、かつ感じさせない人でもあるらしい。
「また、お会いしましょ」 2005年12月31日更新