アーサーおじさんのデジタルエッセイ203

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第203話 日常への記憶


猪瀬直樹さんが、朝、目が醒めると「今日は自分はどこにいるのだろう?」と考える由の話を読んだ。仕事で旅の多い人だから起こる事だろうか。しかし僕らも、いつでも自分が家で目が醒めると考えてもよい、とは言う理由はない。

天井の色が違ったら、どうなるだろう。布団の匂いが違う。起きたら環境が違う。鏡に写る姿が見たことのない人物だったら!

「自分」の意識は、鏡の自分の像で作られていたのだろうか?外に出たら、知らない人がにこにこして「やあ、ゞ仝≠§♂∋∬θさん!」と知らない名前で呼んだら、どうしよう。

人はどんな理由によって、自分が「自分」であることを理解しているのだろうか?

古代の人はほとんど鏡を持っていなかったから、朝、「自分」に戻るためには、家族の顔を見る必要があった。家族が居なければ、太陽や見慣れた庭の樹木や光が必要だった。見慣れた手、指。体の色。そして近所の人。見慣れたコミュニティが無かったら、どんなに危うい人生か。かくて移動する人生であるジプシーは、群れるか大家族で行動した。巡礼は決りに従い、寺社で日常の行動の確認をする。カラスもスズメも、ゼブラも自分と似た形態の仲間と群れる必要があったのだ。

朝、まずは歯磨きをしながら自分を確認する毎日が必要なのである。

「アイデンティティ探し」というのは、一生群れから離れない人生の場合、で言われる言葉である。


             ◎ノノ◎   
             (・●・)

       「また、お会いしましょ」 2004年3月7日更新


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