アーサーおじさんのデジタルエッセイ177
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む過酷なティッシュ配り
一枚のティッシュは本当に必要なときには、助かるものだ。
食事のあとに口をふいたり、鼻をかんだり、大事なデスクの書類にコーヒーが垂れたりしたら、その場にあるか、ないいかが重要事項である。
とはいえ、タイミングが違えば不用な、傘みたいなものか。
押し付けられても要らないらしい。
本来の役割も,全て“状況”がその価値を決めるわけだ。
だから簡単に見えてもむつかしいのが、街頭での「ティッシュ配り」。
ぞろぞろやって来る人は望んで受け取ってはくれない。
目を逸らし、無視し、走り去り、ことごとく他人に為し得る最も冷たい時の側面ばかりを向けられるはずだ。
配る側に気合が入ってたり、目立って印象が強かったり、笑顔が素敵だったり、上手な声掛けがないと、誰も手を出してくれない。
実は個人の精神力が試される仕事ではなかろうか?
駅前のビルの階段から、下を見ると、今しがた歩いてきた通りが真下にある。
よれよれのジーンズにTシャツ、綿のカーディガンを羽織った、スニーカーの女性が「ぉねがいしまぁす」とティッシュを差し出している。
なかなか受け取ってもらえない。
泣き出しそうでもある。
だから、あんなアルバイト、するものじゃないのに。と言いたくもなる。
真剣にやると、気持ちをヤスリで擦っているような仕事ではないか?
30人に一人くらいが、力なく受け取ると、彼女の顔がパッと明るくなる。
そして「ありがとうございます」と大きく頭を下げる。
それはそれは嬉しそうである。
あー、あんなに表情が変わるのだ。
私がもらうことで良いなら、何度か往復でもしてあげようか。
私は階段を下りて、彼女が立つ場所に知らぬ素振りで近づく。
彼女は一呼吸して、僕を相手にしなかった。
僕の消極的ボランティアは誰知らぬうちに、消え去ってしまった。
「また、お会いしましょ」 2003年9月16日更新