アーサーおじさんのデジタルエッセイ169

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第169話 チュータの世界旅行


伊藤忠太という20世紀始めに活躍した建築家の展覧会が行われている。

東京大学の名誉教授だったというから、最後は権威者でもあったのだろう。

築地本願寺、湯島聖堂などが彼の仕事である。

それはともかく、当時、東大は教授昇格のために3年間の留学が慣例になっていたという。

西欧の大学などに3年間通うのが通例だったが、彼は人が見向きもしないアジアの建築を3年間の間見て回る旅を申請した。

学内でも賛否両論であったが、最後に西欧を(まじめに)回るという条件でOKが出た。

そして中国、インドシナ半島、インド、ネパール、アラブ、トルコ、シリア、エジプト、ギリシア、などを見た後、イタリア、フランス、イギリス、アメリカと回遊して3年3ヶ月で日本に戻ってくる(1902年4月8日から1905年6月25日まで)。

紀行ノートを見ると、前半は饒舌にて詳細、後半の欧米の記録はほとんど書いていないのだから、徹底している。数千枚の建築写真を持ち帰っている。

とはいえ、学者ではなく、ほとんど冒険旅行家ではないか。ちょっと前(1900年)には、単身僧侶で鎖国時代のチベットに潜入した“河口慧海”がいる。こちらも冒険家である。仏教経典の(秘密)入手が目的とはいえ、中国語、ネパール語、そして10ヶ月でチベット語をマスターしながらの接近入国である。

途中でスパイ嫌疑などをすり抜け、ヒマラヤ越え、味方を作りながらの危険な旅。当時彼のチベット旅行記は、後に「文化人類学的」功績であることが証明されるまでは、あまりに荒唐無稽で創作ではないかと疑われた。

これも偉い坊様である前に血気の盛んな旅行青年であることは間違いない。

私も、こんなスケールの旅にあこがれるが、ペットの亀の水替えで日々が過ぎていくような日常を過ごすばかりである。

ほんとに、もう、忠太の情報は毒であった。

             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2003年7月16日更新


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