第二話は、大伴旅人(おおとものたびと)の歌です。旅人は、大伴安麿の長子、家持の父。歌人で将軍。665年生まれ、漢詩文もよくした。左将軍・中務卿を経て、養老二年に中納言、養老四年に征隼人持節大将軍となって隼人の乱を鎮定、晩年は大宰帥(だざいのそち)として九州に在任した。天平二年、大納言となって帰京、翌三年(731)年7月従二位大納言を以て亡くなった人です。
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子
伊与余 摩須万須 加奈之可利家理
世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
世の中とは、空しいものだと知るにつけ、さらにますます悲しみが深まってしまう。
世の中にありとあらゆるものは、すべて仮の存在であって空しい(伊藤博「萬葉集釈注」)。歌に「空し」の語を使ったのは旅人が最初で、萬葉集中に5例しかない。世の中(世間)は梵語lokaローカの訳で、壊れるべきもの、よのなか、のこと。
「いよよ」は「いよいよ」の略。
「けり」は今にいたってそのことに気がついたという詠嘆のことば。「悲しき」「悲しも」などと結ぶのが萬葉集の慣例で、「悲しかりけり」という表現は、この歌のみ。
私が萬葉集に強く惹かれたのはこの歌を読んでからです。世の中が空しいとするのは仏教の考え方です。聖徳太子が「世間虚仮(こけ)、唯仏是真」(我々の住んでいる世の中は、空しく仮りの世である。ただ、み仏のみが真である)といい、その数十年後に旅人が、萬葉集に歌として、空しという言葉を定着させたといえるでしょう。
旅人は、世の中は空しいものだということは観念としては知っていた。しかし、今、妻の死というものに出会って、初めて我が身に感ずる時に、いよいよますます悲しい思いがするということです。妻が死んだことが、世の中の空しいことの一つであるとして、諦めることができるのか。知識として「空しい」といっても、人の心の中には割り切ることのできない悲しみが深まることを、心の底から歌っています(五味智英「萬葉集講義全3巻の2」)。
安らかな調べをもって気品ある詠みをしているのは、その心がいかに徹していたかを示し、亡妻を悲しむ歌でこれ程の気品を持ったものは稀である(窪田空穂「萬葉集評釈全20巻の3」)