アーサーおじさんのデジタルエッセイ564

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第564 キログラム原器


 質量の単位であるキログラムの基準は、1889年に白金イリジウム合金製の実物で作られ、パリのどこかに「キログラム原器」として厳重に保管されている。
世界各国に配られる分銅は、これが基になっていたが、原器が洗浄で一億分の六程度軽くなったのだという。
だからもっと正確な「定義」にいずれ変えられ廃止されるのだ。
 分かったような、分からないような。
 だいたいそんなもの触らせてくれないし、見学もできないのだ。
どこにあろうとなかろうと、新聞の写真で信じろというわけだ。
その上、どうして計ったら一億分の六キログラムが減ったと分かったのだろう。
その「計り」の方がきっと正確なのに違いない。
その計りはどうやって作ったのだろうか、使っても擦り減らないのだろうか?

 こういう抽象的だが「信じるべき」存在は、それでもどこかになければならないらしい。
さて、神さまはどこにいるのだろうか?
普遍的なはずの神様だが、イタリアの中のバチカン市国にいるのだろうか。
そこには「神様原器」が厳重に保管されているのだろうか。
それは擦り減らないようにガラスケースに保管されているのか。
 もうイエスは死んだのだから、保管はされてないでしょう。
 というなら、それは歴史的人間の方のイエスなので、神様ではない。
神様は死なないでいつでも現役でなければ、信じる意味がない。
バチカンは人間のイエスを「神様」として凍結するために、いろいろ方針を立て、そのほかの「原器」を否定したらしい。
だからきっと「神様原器」をキープしているのだ。
しかし、どうも世界は自国の、あるいは人々は自分の神様を持っているようなので、重さも違うものらしい。
それでも神様は神様。
実用的には、あっちが偽物、こっちが正しいとか言いきれないところがある。
神様原器の定義も、切り替えるときが近づいているのではないだろうか。
 人のこころの中の真実原器も、ある時に、定義がし直されることがあるのだ。
同じ生活を続けていても、成長とともに切り替わっているのだ。
  

               
             ◎ノノ◎
             (・●・)
               

         「また、お会いしましょ」 2011年11月5日更新


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