アーサーおじさんのデジタルエッセイ538

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第538 遠慮している春の風景


「春」の話を書きたいと考えていた。でもどうもうまく行かない−−−何かが邪魔をしている。
もちろんそれが何であるか分かっている。
それでも、書きたいという気持ちが出てくれば問題ないのであろうと思って、待っているのである。
 家庭の事情があって、たった一晩、九州に出掛けて来た。
あちらの町ではもう桜は完全に満開で、地面には水でも撒いた時のように花びらの水玉模様が見られる。
でも何かが違う。
呆けた宴会や見物人の姿、オーラが無い。
歌舞音曲も聞こえない。
夜はライトアップがされる訳でもなく、静かに暗闇に潜んで咲いていた。
それは不思議な光景だ。
満開の夜桜の下に人が見えない。

 東北の海岸の人の苦しみ、あるいは周辺の電力の供給不足を考慮してか、控えているらしい。
その是非はともかくとして、やはり心理的には苦しみの余波が南の国にも届いているというべきなのだろう。
 しかし、山里の豊かな庭先に、むかし咲いていた頃の桜というものは、こんな風に無邪気であったのだろう。
桜の咲く場所に地名など与えられていない場所には、梅が咲き、モクレンが開き、桜が咲き、虫や鳥が顔を出した。
どの花や草も同等に自由に体を伸ばしていたのだろう。
 人が現われて、その評価をランク付けする前である。
国花などと言い、体制のシンボルとする前の素朴な花の現われ方である。
国花、などと持ち上げ、花見、などと特別扱いをするから、控えるという意識が必要になる。
赤ん坊が桜の花を見上げる時には、「あ、日本の国花だ!」とか「さて一杯やりたい」とか思うわけがない。
蝶の幼虫である毛虫も今年は遠慮するなどということはない。
豪華な虚飾を脱ぎ去る春の姿、というものを味わう方法があるかも知れないな。

             ◎ノノ◎
             (・●・)
               
         「また、お会いしましょ」 2011年4月9日更新


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