アーサーおじさんのデジタルエッセイ536

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第536 カタストロフィへの感情


 このところ、緊張がつづく。
それも自分の側で生産する緊張ではなくて、24時間を受動的に構えているということである。
「緊急地震速報」などと云うものがピコピコと鳴ると、どうしても平然としているわけにもいかない。
といいつつ、随分と慣れてしまった。
「ああ、そうですか」という感じである。
 部分的な、あるいは縦割りのパニックに翻弄されながらも、同様に部分的に、生活の縦割りごとに、日常を取り戻していく。
会話も戻っていく。
大自然の災害が強烈であるように「日常」という名の生命力もまた、強烈である。
一方で相変わらず「電池」「納豆」は売り切れたままである。

 こうやって、甚大な被害と悲しみの当事者から少しばかりずれた我々は、反動的に釣り合いを取るように、日常を取り戻す。それが何なのか?
人の苦しみは何なのか?
知性と情と言ったものが、バランバランにかき混ぜられて、整理がつかなくなったような気がする。
東北の雪を心配しながら、暖房のスイッチを入れる。
避難所での辛さを想像しながら、屋根や壁の有り難さを感じることを持続できてはいない。
夢を紡ぐのはいつもの暖かい布団の中である。
社会的で知性的な生活を送っているようでも、私の身体は、ヒトデやゾウリムシと違わないかも知れないと思う。
何かが欠けているような気がするからだ。


             ◎ノノ◎
             (−●−)
               
         「また、お会いしましょ」 2011年3月26日更新


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