アーサーおじさんのデジタルエッセイ514
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 疲れと言うのは、普通は体だと思われるけれども、今回は「こころ」ではないかと思う。
			疲れていると何にも書けないということになるが、それはどういうことか。考えていないわけでも、感じていないわけでもない。
			アパシーということばもあるけれど、頭が動いていないわけでもなさそうだ。
			たぶん「書く」というセオリーに含まれる一連の段取りが取れなくなるのだろう。
			サッカーで言うと、ボールは見えているし蹴れるのだけれども、チームとの動きが取れなくてゲームにはならなくなるのかもしれない。
			そうなんだ、こころというのは表現されたもの。
			だからそれを支える源泉は相変わらず健在なのだろうけれど、もう他人には伝わらないということ。
			通常の人の日常というものは、随分と表現されているから分かるのだ。
			「こころ」は表現である。だから作られたものだ。
			学校で教えられたセオリーで作れば教えられたとおりの「こころ」が出来あがる。
			だからもう自分のものではない。
		

 芸能人なら婚約発表の場で「いかがですか?」とマイクを突きつけられれば、90%は応えが決っているはずだ。
			少し新しい表現であれば好まれる。
			 疲れていれば、そういうシナリオを排除できるかもしれない。
			「こころ」を表現せずにいて、ため息をつき、これまでの体験を俯瞰するといいのだろう。
			目が開いたばかりの赤ん坊の頃の不思議な目で世間を見ればよい。
			「むにゃむにゃ、おしっこー」 世間は何をぐちょぐちょこだわっているのだろうか。
			口を「へ」の字にしたり、大きな指輪をじゃらじゃらしたり、おとな、何やってるんだろ。
              ◎ノノ◎
			              (・●・)
          「また、お会いしましょ」 2010年10月8日更新