アーサーおじさんのデジタルエッセイ511
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む やはり、どう言おうと男性と女性は違う。
			まったく違う、異次元に生まれた同士であろう。
			妙だと思われるのは、むしろいくらか共通点があることだ。
			体の姿・構造が比較的似ている。
			目や鼻があり、手足がある。
			だから似ている、というくらいのものである。
			そんな風に、身体が似ていたところで、住む世界は違う。
			ファンタジー的には別の世界である。
			それは間違いない。
			一つの映画を見ていても、実は別々の内容を見ていて、違うドラマを受け入れているのだ。
			でも、言語が近いので、「よかった!」とか感想を言うと、きっと同感だなんて、お互いが勘違いするだけなのだ。
			「愛している」。これは完全に違う内容である。
			これはここでは説明できない。
			なぜなら、両者が読むはずだから。
			どちらのパラダイムで話せばいいのかで変わってしまう。
			 いや、身体の構造が違うからジェンダーが違うのだ、という意見もある。
			そんなことは別にどうでもいい。
			AかBか位の違いだろう。
			解剖図での差のことはそれだけのこと。
			ダ・ビンチがどんなに描いても、描き切れないのが、実はその主観なのだ。
		

 民俗学用語では「妹の力」ということばがある。
			ファンタジー(主観)が違うと、動かせるものが変わる。
			互いに発揮する能力が違う。
			体力とは違うものでパワーがある。
			生まれてから少年と少女では二者択一のY字路に立っている。
			その堺目にいて、手を振っているのかもしれない。
			そこから違う世界を担うべく旅発つ。
			なのに少しして、別れたことすら忘れ「まだ、同じ言葉を話している」と思いこむ。
			そうして映画を見、夢を見る。
			しかし住む世界は違う。
			 また、Y字路で道を間違ってを選んだ者は、後に「ファンタジー」が違うことに気付くこともある。
			現代はそれを修正する、ということに、社会は気付いている。
			              ◎ノノ◎
			              (・●・)
          「また、お会いしましょ」 2010年9月11日更新