アーサーおじさんのデジタルエッセイ505
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む ふと、頭の中に閃いたことをうまく書くのはむつかしい。
			閃いた瞬間は、まだ言葉にはなっていないからだ。
			空中を落ちて行くゼリーみたいなそいつが形を変えないうちに、言葉という形態に定着させるのは、いつでもうまくいくとは限らない。
			 人は幼児の頃には、母親と一体であり共存しているので、分離出来ない心理状態にある。
			自分の延長能力として母が動いていく。
			それをコントロールするのは、基本的で原始的な小さな動きであり、しかし全部がなんらかの試行錯誤をする意味ある行動である。
			これは分離している二体の緻密で頻繁な「フィードバック」に支えられている。
			互いに信号を出し合いながら、要求の完成形をめざすのである。
			 けれど、その幼児もやがて自分の側だけに意味のある秘密を作れるようになり少しずつ変化していく。
			長い時間を掛けて社会的にも自立すると、本当の独立が始まる。
			母親も大抵はそれを自覚して、離れてくれるはずだ。
			 やがて、一旦は自立したはずの個体に青春が訪れる。
			それは母親との生活とは違う、新たなネットワークの構築を目指す仕事である。
			青春の身体は異性を求めて、その接近に震える。
		

			 白い犬のお父さんが「青春とは、アーンだ!」と強調する。
			どうしてだろうか?と考えた。
			あの次郎さんの言うことだから深い意味があるのだろう。
			そうか、青春の身体は、遠くからやってきた別種の身体と一つになりたいのだ。
			かつて母の身体を自分の延長としていた頃のように。
			それで互いのフィードバック通して確認をしながら、それぞれの動きを受け入れ、自分の延長として機能するように練習を始めるのだ。
			その入門編として、食物を相手の口に音声信号を発しながら、入れようとする。
			互いが自分の手のように相手の手を使って日常の行為を試みる。
			それは互いの強いモチベーションがなければ片方の意志では叶わぬ作業として適確な課題であろう。
			こうして、好みの相手の「はい、あーん」という信号に合わせて無言で口角を広げる。
			イメージ通りに食物が口に運ばれる。
			遠い過去に失った母との共同身体作業をここから始める儀式であり、練習なのであった。
              ◎ノノ◎
			              (・●・)
          「また、お会いしましょ」 2010年7月31日更新