アーサーおじさんのデジタルエッセイ485

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第485 あるダーリンの頭の中と「机が無くなる」不安について


 定年を迎え、週3日の勤務になったばかりの友人が言う。
休みの日は、ふと「働かないでいいのか?」「会社はいいのか?」と自責の念に襲われるというのである。
まるで、学校をさぼっている小学生のようになるのだ。
あはは、サラリーマン中毒だねえ。
そういうと、「その通り」と答える。
なんと不自由な「自由」なんだろう。

 知人のフランス人のMさんは、このエッセイなど軽々読んでくれて、西行や平家物語など楽しく読むという若者。
居酒屋でアルバイトなどしていたが、日本を離れ、故郷に戻った。
その後、日本女性と結婚した。
そちらも就職難ではないのか、日仏に関わる仕事ならこちらで探せるのではないの。と訊いたことがあるが、条件があるのだという。
「フランス、日本を行き来する仕事であること」に加え、「2か月強のバカンスがとれること」と言う。
それでは日本では就職できない。
特に後者、そんなの無理だとは日本人は誰でも思うが、国際的な考えでは、そうでもないらしい。
「生きる」とは「従う」ことではなく、好きな人生を「構築する」ことだから、窮屈な日々を求められる日本では職がないのだ。
 仮に2カ月にも亘る休暇ももらったら、もう“会社の自分の机が無くなる”のではないかという不安があるせいで、通勤電車で押し合うひとびとの休暇はまことに短い。
居酒屋で過ごしたり、モバイルのゲームや週刊誌を読むのが彼らの心の休息なのか。
会社では自由な発言をせず、夏・冬の休暇は温泉一泊程度で済ませ、生命のエネルギーをすべて捧げてから息を引き取る人生は、異様である。
 そういえば、作家の浅田次郎さんが外国で講演をして、「ぽっぽや(鉄道員)は、仕事のために、親の死に目に会えなかった男の物語です」と言ったら、たいへん受けて、聴衆が笑ったそうである。
国内だったら、誰も身につまされて受け止められただろうが。

             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」  2010年3月13日更新


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