アーサーおじさんのデジタルエッセイ459
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 不思議なことだが外国で楽しい時間を過ごしていると、「自分」の年齢や像が曖昧になる。
「自分」は自分が自立して分かっているのではなく、毎日、周囲の他者に支えてもらっているのだ、ということが分かる。
いったい年齢という時間は絶対的に身体に刻まれているのだろうか?
年齢はもともと親から教わったもの、つまり与えられた情報にすぎない。
そう、原始人の家族は年を取ることを知らず、いつまでも子供の集団だったのではないか。
身体的な力関係のみ。
感性は子供のまま。
だから時に経験的に反応する大人は強い恐い存在だったはず。
しかし、気紛れで暴力を振るうこともあったろう。
そこに鏡が登場して、歴史が始まる。鏡は主観を「対象」に切り替えたのだ。
「自分の像」を確認することが歴史の始まりではないだろうかと思う。
支配者が歴史を作るのは、自分の像を手に入れたからだ。
そうして描くべき対象を創り出したから、史書が生まれ、肖像が描かれる。
われわれもまた鏡を見ることで年を取り、自分史を作る。
山歩きをしていて道に迷う。
崖から滑って頭を打ち、記憶が曖昧になる。
這ってふもとに下りてくる。
水を飲む。
しかし人家などなく、誰もいない。
そうして何日かが過ぎると、人は頭に浮かぶ記憶の中の自分しか知らず、年齢を失うだろう。
今の自分を知るには、あとは「鏡」を探すしかない。
浦島太郎は、竜宮でおそらく楽しい毎日の中にすっかり自分を見失っていたのだ。
その年齢を取り戻すためにはヒントが必要だった。
玉手箱の底には一枚の鏡が入っていたのではないだろうか?
◎ノノ◎
(・●・)
「また、お会いしましょ」 2009年9月6日更新