アーサーおじさんのデジタルエッセイ432

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第432 説明しにくいがホントのこと


 世界がグローバル化している中で、日本だけが取り残されているような、あるいは鎖国をしているような気がすることがある。
人と人が会うと、諸外国では握手。
あるいは親しければチークキスで抱き合う。
これは接触が挨拶の基本単位であるということ。
もっと深い意味がある。
それを書く。
 日本では頭を下げる。
これは便利。
なぜなら遠くで声が聞こえない距離でもできる。
しかし問題がある。
近くても、決して相手に触れない。
むしろ相手との距離をとる手段でもある。
握手をするのなら相手に近づかなければならない。
抱きあうなら距離はゼロになる。
 諸外国の握手は社長と新人でもOK。
しかも互いの「接触面積」はいつも等しい。

 ここで整理をする。
つまり握手は「人間として、互いの平等の確認」がベースにある。
例え雇用関係があろうとも、まず人間としての平等を宣言しているわけだ。
お辞儀は「互いに身分の上下を確認」する時間。
固まった新人が遠くから頭を下げて沈黙する。
あなたの足元に位置しますとの宣言。
一見、互いがし合うように見えても、必ず頭の下げ方に差が付けられ、暗黙に了解しあうところがミソである。
謙遜ではない。
一方がもう一方にあなたの方が上です、と示すのだ。
これを毎日やる。
大学教授が出会った新人学生に深々と頭を下げる光景はない。
接触もない。
天皇に謁見する時に、かつては直言も顔を直視することも許されなかった。
平等はなく、身分の上下の確認が挨拶である。
毎日、毎瞬、上下関係を確認する。
そして外国では、毎日、毎瞬、平等を確認する。
そう、僕は2ヶ月間もお辞儀をしなかった。
必ず相手に接触して平等を確認しながら暮らしたのだ。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2009年1月18日更新


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