アーサーおじさんのデジタルエッセイ363

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第363 偶然の適切な分量


 海外を飛び回るカメラマンがいた。
80年代のころだ。
彼が本当に暗い顔をして、手帳を見ながら「ああ、いやだなあ・・」とため息をついている。
どうしたのですか?「うん」と暗い顔で手帳を読む。
来週は、ハワイ、その足でロサンゼルスとニューヨーク、一旦帰って、次の日にまたハワイ、そしてアフリカ、またロス。
「えー、すごいですね!」
 彼は「いやだよ。
食べ物はまずいし、何にもすることはないし」
「え、ハワイでしょ。アメリカもいろいろあるでしょ」
「・・・飽きたよ。家でのんびりしたいよ」との辛そうな表情に私はすっかりカルチャーショックを受けた。

そういえば、大学時代にある友人が、釣った魚を示す時のように両手を広げて、シェークスピアを文庫で全部読んだよ。
一週間でね、面白かったからね。と言う。
どれが一番よかった?と訊ねると、沈黙。
「一度に読んだので、全部混ざって、ストーリーを全く覚えていないんだ」という。
絶句。
 思い出や幸せというものは、一度ずつ、ゆっくり咀嚼し、噛み締めていることで、価値の酵素が入り込んで思い出に醗酵するらしい。
出来事を高速度で詰め込むことはできないのだ。
年齢が高まると、なおさらそれを感じる。
嬉しい偶然が立て続けにやって来ても、ちょ、ちょっと待ってくれ! 多すぎる、となる。
走りながらルーブル美術館の名画を鑑賞するようなことは、もう体に入ってくれない。

             ◎ノノ◎。
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」  2007年6月3日更新


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