アーサーおじさんのデジタルエッセイ329
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む その昔、豊かな木々の森の中にいくつものお城があって、人々がそれぞれ楽しい暮らしをしていました。
けれどよく見ると、あるお城だけは少し様子が違います。
いつの頃からか、その主人がひどい病気で苦しんでいたのです。
来る日も来る日も体の痛みや吐き気に襲われ脂汗を流す。
そして一日中繰り返される投薬や、膿と患部の処置。
疲労した体の睡眠時は、間断なく悪夢が胸を締めつけるのです。
こんな日々に、彼は自分にどんな未来がやって来るのか不安でした。
ある日、誰かが門を叩いています。
主人はすぐに、それが最近あちこちのお城を訪ね歩いている悪魔であるのが分かりました。
追い返したいのに、気付いた時には悪魔は彼の枕元に座っていました。
「すっかりその苦しみをとってあげられるんだけど」
こんなことには条件があるに決まっています。
大抵、魂とかとんでもない重要なものを要求してくるのです。
彼はそれでも、魂でもいいから、苦しみがなくなれば、と思ったほどです。
「交換条件は、この素晴らしいお城だね」
え!お城。病床の彼は驚きました。こんなものでいいなら、取引はお安いものだ。
「魂は取らないし、お城を出てからの仕事も用意してあげよう」
そんないい話なら、早くこの苦しみを取り除いて欲しい、と頼みました。
気がつくと、森の中の石に腰掛けていました。
みすぼらしい服にみすぼらしい掘立小屋が一つありました。
しかし彼は何よりも、体に痛みが無く、元気が生まれてくるようで幸せでした。
ああ、こんなに素晴らしい日々があったのだ。
小鳥が鳴き、虫が足元を這い、木々が葉を揺らしています。
慣れない斧を使いながらも、なんとか生活は成り立つようでした。
何年かが過ぎ、少しの木の実やスープを炊き、木を切るのにも慣れてきた頃、一本の美しい木に斧の一撃を加えようとして、ふと上を見上げると、その向こうに水晶色のお城が見えました。
あ、ときこりになった彼は声をあげました。
忘れていたのです。
キラキラした服を着て、踊りを踊ったり、怪しげな食物を味見したり、笑ったりした日々が思い出されました。
彼は斧を地面に落とすと、そのまま座り込み、力なくお城を眺めたままになりました。
夜になって悪魔の名を呼びましたが、返事はありません。
夜露に濡れながら顔を上げると、お城は明るい蝋燭の灯が華やかでした。
蛭が足元から這い上がりふくらはぎの血を吸い始めました。
訳の分からない獣が目を光らせて集まって来ました。
きこりはそれに気がつくと重い足を引き摺り、木に登り始めました。
餓えた獣は何匹も残念そうに唸り声をあげています。
きこりは安全のためにもう少し、もう少しと上を目指しました。
もう大丈夫という高さの枝まで来ると、きこりは座りました。
孤独でした。
闇夜の空に星が見えました。
お城の灯りもありましたが、もう遠い世界のものに感じ始めました。
やがて、東の空が薔薇色に変わってきて、少しずつ夜が明け始めました。
朝の冷たい風で目を覚ますと、不思議な音を聞きました。
最初、それは啄木鳥(きつつき)の活動のようでもありました。
でも、ゆっくりと響きます。
コーン、コーン。
遠い森から響きます。
もっと耳を澄ますと、いくつもの音が聞こえてきます。
小さな音。間違いなく森にいる他のきこり達が仕事をしている音です。
お城にいた頃は決して聞くことがなかった音でした。
きこりは思わず声を出しました。
「それでいい、それでいい」
「また、お会いしましょ」 2006年9月23日更新