アーサーおじさんのデジタルエッセイ307
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 幼児は、クマのぬいぐるみを自我の中の「最初の家族」として受け入れるのではなかろうか。
そのクマのヌイグルミはCMで見るようなピカピカでブランド風に気取った新しいものではなく、あちこち擦り切れて詰め物が少々露出したり、色が剥げたり、鼻や頬、手足の先が黒ずんだりしているものである。
そんなことはない。幼児にとっての家族はまず母親、そして父親ではないかという声がある。
しかし、新生児の自我というものがあるなら、それはもちろん未確立で、母親、あるいは養護者の存在からは未分化である。
世話は外的なものではなく、自己内部の有機的運動として取り入れられている。
自他の区別はない。
やがて、母は母、父は父として家族になる。
なるともいえるし、まず自我を確立するために自己の有機的運動から、他者としての父母を排除するとも言える。
幼児はなによりも自我の確立のために、生存の運動から他者を分別し、関係を再度切り結ぶ必要に迫られる。
この作業により自我を独立させ、家族を作り、自分の意識と時間を獲得する。もちろんそれは随分と後のことである。
とすれば、有機的運動として他者であるクマのぬいぐるみは、その前に幼児に受け入れられる「最初の家族」となることになる。
それはお飾りの人形ではなく、まるで自分の新しい内臓のように活用される。つまり擦り切れる、黒ずむ、変形する。しかし、愛される。
愛される、とは大事にされる、ではなく、働かされること。
くたくたになるまで胸に押し付けられ、涎を浴びせかけられ、手足を掴まれていろんなママゴトの役割を果たされ、夜は体の下で押し潰される。
クマのプーさんはどうか。
プーさんには2種類ある。
「ディズニーランドで買ってきたプーさん」と、「子供の家族となったプーさん」である。
愛され、虐待されているのは勿論、後者である。
ディズニーのキャラになる前の、英国のクラシック・プーのことを話そう。
クリストファーという男の子がヌイグルミのプーの手を引っ張って階段を下りていく絵がある。
そこではプーさんは擦り切れた布の塊であり、引っ繰り返って頭を階段にゴトゴトとぶつけながら落ちて行く。
これが家族である証拠であり、「クマのぬいぐるみ仮説」である。
「また、お会いしましょ」 2006年3月26日更新