アーサーおじさんのデジタルエッセイ165

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第165話 「落穂拾い」の謎


「ミレーの三大名画展」を見てきた。休暇をとった平日の午前中だから、混まないと思ったのだ。しかし混んでいた。僕は実は、有名な「落穂拾い」の絵には、いつも何か違和感を感じていたのだ。

まず彼女達は覇気が無い。ポーズをとらされて凍り付いているみたいじゃないか。それにここで言う“落穂拾い”とは一体何なのだろう。白い解説板を読むと、遠景に、収穫をする農民とそれを鞭で指図する馬に乗った監視人が見えるとある。そして、監視人に『許されて』落穂を拾う三人の農婦、と書いてある。「これだ!」違和感の原因は。

ミレーが描くのはいつも、僕らはのんびりした農業風景だと思いがちだけれども、彼らは自由な農民ではなく、自分のために収穫しているわけではない。働かされているのだ。だから手を抜いたりさぼったりすることは出来ない。

少し調べてみると、西ヨーロッパ、フランスではおそらくまだまだこの時期は、小作・農奴の時代であり、収穫労働をするのは自由農民ではない。(フランス革命前の人口構成では、全人口の2%が聖職者、貴族市民で、あとの80%はその2%に支配される農民である。)

サロン(仏の体制的絵画展)では、この絵は「政府への批判だ」と取られたのだという。つまり、農民の悲惨さを突き付けている、と言うのだ。(たぶん、そうなのだと僕は思っている。)

しかし、遠景に見える厳しい収穫労働を放り出して、落穂を拾うなど『許される』わけがないのである。また、落穂は「収穫され損ねたもの」を意味するから、落穂作業を認めると、おのずから収穫作業が雑になるはずではないか。徹底して取りこぼしのない作業を求めるはずに違いない。

では、どうしてこの絵が出来たのか?

しばらく、僕はこの絵を遠くから眺め、遠景、つまり収穫作業の上半分を指で隠して見た。するとどうだろう!突然、絵が暗くなった。分かった!これは二つの時間を同時に描き込んであるのだ。上に昼間の激しい収穫作業、下半分に黄昏近くの疲れきった落穂拾い作業。実はこの絵がまず、農作業の工程を説明しているのだ。そしてその光の落差から、“落穂”の時間と意味を示しているに違いない。

このテーマは世間には気に入られたのか、ほぼ同時期の画家ブルトンに「落穂拾いの召集」というタイトルの素晴らしい絵がある。こちらは意気揚々と落穂を集めた農婦達が引き上げるところである。日が落ちて天にはもう月が掛かっている。これが本当の時間の“落穂拾い”。監視人が去り、自分達だけの天下で自前の収穫を喜んでいる人々である。

ミレーの残りの絵、「晩鐘」と「羊飼いの少女」には確かな時刻が刻まれているが、落穂拾いには時刻が無いのだ。

ミレーは、サロンで「羊飼いの少女」が絶賛された後、批判的に見えるテーマを描かなくなったように思える。1860年ごろが境である。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2003年7月12日更新


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