第四話:大伴旅人(おおとものたびと)の歌です。
價無 寳跡言十万 一坏乃 濁酒尓 豈益目八方
價(あたい)なき 宝といふとも 一坏(ひとつき)の 濁(にご)れる酒に豈(あ)にまさめやも
たとえ値のつけようがないほど貴い宝珠でも、一杯の濁り酒にどうしてまさろうか。
仏典の「無価宝珠」の翻読語。仏法を値段で量れないほど無上の貴い珠にたとえた表現(萬葉集全注2巻西宮一民)
酒の杯に土器(かはらけ)を用いたので、こう書いた。
漢語「濁酒」のの翻読語。糟を漉してない酒。「清酒すみさけ」の対。つまりどぶろく。
「あに」は打ち消しや反語と呼応する副詞、「や」は反語。どうしてまさることがあろうか。
旅人が、これらの歌を詠んだ頃の状況を、伊藤博著「萬葉集釈注10/2」から引用します。
大伴旅人が大宰帥となって筑紫に下ったのは、神亀四年(727)の暮れの頃で、老残の身の筑紫下りは、皇親政治の推進者長屋王と旅人との絆を割く、藤原氏の謀略であった。筑紫行に伴った妻大伴女郎(いらつめ)は、翌年の4月はじめ頃、大宰府で死んだ。
次いで、神亀6年2月12日、長屋王が藤原氏の謀略にかかって自尽においやられる。妻に逝かれて郷愁の憂いもひとしおだった旅人のもとに、3月も末のこれらのうた歌の頃には、長屋王の報せはとっくに届いていたはずである。そういうもろもろの悲しみを託し、その苦しみから解放されようとして詠んだのが賛酒歌十三首だと思われる。その気持ちを旅人は、心許す大宰府の人びとが分かち持ってくれることを信じながら、十三首を詠んだのであろう.....。
なお、中国の飲酒詩では、酒によって人生の苦悶を慰め、人間の孤高をうたう風がいちじるしく、文芸の対象として酒をとらえる目がつとに開かれていた。対して、我が国にあっては、遠く後世に至るまで、人間存在の凝視の中に酒を呼びこむ風はほとんどなく、実用的な宴席歌の伝統を根づよく守る傾向が見られる。
その中にあって、この讃酒歌十三首はただ一つ特異で、稀少価値がある。...十三首の綿密な構えには、中国飲酒詩に匹敵する人生の酒、文芸の酒としての高まりがあるといってよいであろう。
いい、釈注文ですね。では次回をお楽しみに!