アーサーおじさんのデジタルエッセイ522

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第522 いやらしい「フロイト」


 ものごとにはいい面と悪い面がつきまとうのは間違いない。
僕らが学生の頃はまだ、世の中は「まじめ」であり、「いやらしい」人は嫌われることになっていた。
だから平凡パンチよりも岩波文庫を読むべきだった。
また先輩や先生は偉く、社長と総理大臣はいばってもよく、仏経とキリスト教はありがたく、賞状と勲章はすごいことであった。
そして清貧や苦学、貯金や従順は模範であった。
 そんな学生の頃、気のきいた友人が「フロイト」を読んでいた。
彼はリビドーや、抑圧に共感しているようだった。
パラパラと覗いた私は眉をひそめた。
「いやらしい!」なに「肛門性格!快楽原理」「ハイヒールと夢(?)」なんという俗悪、淫靡。
フロイトという人はお騒がせな人ではないのか?
 そうやって私自身、時代の「まじめ」を背負って、自らレールを敷いていたのだろう。
 19世紀後半は、もともとキリスト教という重荷を背負ったヨーロッパの人々が、その充満した「教義・ドグマ」のガスにいささか辟易して、解放されたいと望んでいた時代だったはずだ。
リビドーだろうが、自由だろうが、それを縛っている鎖の主な成分は「キリスト教の教義と体制」であった。
しかもそれへの批判は日常的に、家族的に封じられている。
そういう背景では、身体の自由、行動の自由、思考の自由を獲得するためには、なんであれ過激に利用してその鎖を解く必要があったはずだ。

 そしてその鎖の対極にあったのが「性欲」であった。
シュピレヒコールのシンボルとして個人の「性欲」を前に出すのは、よい方法であった。
多くの知識人が驚いたことだろう。
それはフランス革命の先頭に立つのが女神であることに似ている。
あるいはオルレアンの解放にジャンヌダルクがシンボルに選ばれることに似ている。
体制が最も否定する存在がふさわしい。
 その友人は、さらに「金閣寺」で娼婦を足げにするシーンを熱く語り、カーマ・スートラを読み、「魔女狩り(森島恒雄)」の克明な記録を好むという具合に多少、シンボルに偏りはあった。
もちろん平凡パンチにも詳しかった。
 でも、1900年のヨーロッパで「夢判断」が出版されるということにはこういう体制への公式のマニフェステーションとしての意義があったのだ。
しかしそれは後日、歴史的に眺めた時にそう思えるということ。
だって「出版当初は評価されなかったために初版600部を完売するために8年間かかった」と言われている。
 キリスト教のような明確な抑圧のない日本はむしろ反発も強くないせいで、依然「お堅い」とは言え、「まじめ」の衣の下では自由が蠢いていた。
ちなみに「岩波新書」の「魔女狩り」は随分売れたようだが、中世から近代のヨーロッパで「キリスト教」の名の下に、いかに暴力と財欲と快楽(性欲)とが横暴を奮ったかというデータが満載であり、「まじめ」の内容も徐徐に変わりつつあり、まもなく日活ロマンポルノ、「エマヌエル夫人」の封切りなどが迫っている時代であった。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

         「また、お会いしましょ」 2010年12月4日更新


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