アーサーおじさんのデジタルエッセイ508
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む 暑い夏を、今体験しているわけだけれども、「あつい」「つらい」と言いながら、その脳裏に「さわやかな」「甘い」夏を、私たちは下敷きにしているはずだ。
			 ガラスの風鈴が、ゆっくりと「チロン、チリン」と囁く。
			その瞬間、サラっと一陣の風(古い表現だなあ)が流れ、なにか甘い感触にひたされる。
			ふと自分を見ると、その小さな手は弾力のある小魚のようにピチピチと生きている。
			 少し汗ばむ体はタタミの上でゴロゴロしている。
			まぶたが重くて、ささくれだった縁側の板の光を見ているうちに、その先の崩れそうな入道雲もかすんでいく。
		

 こういう光景のうち、何割が実際の記憶なんだろう?実際に見た光景はどの部分なのかしら。
			あるいは、何度も何度も、古いアルバムを繰るように記憶の詳細が繰り返されるうちに、典型的なパターンになって固定してしまったのだろうか。
			小さなバリエーションは次第に消去されて誰にでも受け入れやすい「あまい」シーンに作り替えられたのだろうか?
			タタミには蟻の行列がちゃぶ台の上に捨てられたアイスキャンデーの棒の方に向かって黒い直線になっている。
			その行列に肩が触れ、噛まれて痛む。
			足のすねは飛び回る蚊に刺されて、赤い斑点だらけである。
			 小さな無頓着な庭先には、それでもきれいな花や草、朝顔のつるも揺れている。
			蝶やトンボ、カマキリやハンミョウがふわりと浮いている。
			 握り締めた指と手首の皺の間はアセモがあって気持ち悪い。
			疲れたネコのように横たわっている。
			誰も家にはいない。
			誰からも忘れられているその時間は、ほんとうに横たわる動物そのものと違いはない。
			そういう自分と、自分の名前を忘れた夏の時間は、どのように書いても「あまい」気がしてくる。
			              ◎ノノ◎
			              (・●・)
          「また、お会いしましょ」 2010年8月21日更新