アーサーおじさんのデジタルエッセイ472
日本鑑定トップ | デジタルエッセイ目次 | 前に戻る | 次へ進む  多くの現代人は自分の身体を、当たり前のように医学的、物質的な機能の集合体として扱い、理解して暮らしている。
			コウノトリが運んで来たとか、背後霊が守っているなどとは、多くの人の前や営業会議では発言しないものだ。
			殺人犯の確定には、聖書で誓わせるより、DNA鑑定のほうが正しいと知っている。
			西欧に限らず最近の若者はやはり神様離れが進んでいる。
			 しかし、人は決定的な不幸に遭遇したり、究極の迷いに苦しんでいると、独りでの判断に巨大な不安を感じる。
			誰にも相談できない状況があると、ストレスの発散は不可能になり、背負い込んでやがて病気になる。
			実はこんな苦しみの中でも、誰かが見ていてくれると思い込むものだ。
			すでに両親もいないのかもしれないが、それでも目には見えない誰かが、支えてくれたり、時には多少は意見を言ったりしてくれるように感じる。
			そこには二個の目がこちらを向いて光っているらしい。
		

 調子がいいときは、それは空想の舞台の役割に似ている。
			街で歩いている自分のしぐさはきっと「かっこいい」だろう、と。
			ATMの前のような、監視カメラの目かもしれない。
			なかなかその目は捨てがたい。山で遭難しても、「きっと里では多くの捜索隊が探している」と思えるかもしれない。
			しかし遭難でもない日常のささやかな迷いと苦しみの中では、だれも振り返ってくれないだろう。
			看護が手厚い病人であっても、その孤独に襲われるだろう。
			しかしそれでも、まだ誰かが見ている。
			不思議だ。隠れん坊でドアの後に身を隠しても、きっと誰かが見ている。
			誰もが自分の内面にそういう「ウォッチャー」を持っている。
			キリストやアラーではない自分専用の「ウォッチャー」。
			不安になると彼に問う。
			「ウォッチャー」とのやりとり。
			その姿はドラマであり、言葉は詩や小説である。
			そのやり取りは人生が芸術でありうることの証明かもしれない。
			              ◎ノノ◎
			              (・●・)
          「また、お会いしましょ」  2009年12月6日更新