アーサーおじさんのデジタルエッセイ105

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第105話 感じん好きい


東京国立近代美術館で「カンディンスキー展」を見に行った。たぶん、日本ではポピュラーではない人だ。多分に知性派であり、情緒的ではないので、心に訴えないかもしれない。彼はロシアの生まれで、モスクワ大学で法学と国家経済学を学んでいた。でも絵に惹かれ、モネの『積み藁』を見て発奮した。それで30歳になってから、学問を捨てて画学生となったのだった。でも、写実の修行ばかりの授業がいやだったらしい。――ここで、僕は少々気になり始め、カタログの中の年表を覗きこむことにした。ミュンヘンの美術アカデミーに入ってから、別の画塾を開き先生をしている。生徒との小旅行の写真がある。先生以外はビクトリア風の女性ばかりじゃないか!この頃、ミュンターという女性と暮らし始める。ひょっとして生徒ではないか?やはりそうだ。何年も一緒に行動し、1916年に別れる。別れて数ヶ月後には、ロシア美人で20歳若いニーナを知り、結婚する。半年ほど後に長男が誕生。(できちゃった結婚かな?)

カタログは、館内のソファーに置いてある購読見本なので、彼の有名な絵『コンポジションVII』のまん前で読んでいる。ボランティアの館員が、コツコツとやってきて「ボールペンは使わないでください」と話掛ける。「はい」といってシャープペンに切りかえる。膝の上なので、美味く書けない。あとでボールペンでなぞって書こう。

気になる事がある。ロビーの別の資料を調べる。1915年、この年には、ストックホルムでミュンターとクリスマスを過ごし、翌3月まで一緒にいる。ストックホルム滞在中に画廊で最後の個展をする、翌月にはなんとそこで「ミュンター」が個展をしている。そしてこの個展に言葉を寄せているのだ。別れても、なにかが繋がったままなんだ。

別の書籍を購入し、驚く。ミュンターと会って「若妻と別れる」とある。画学生になる前に結婚していたみたいだ。

さて、面白くなってきた。

絵はエエ!


インターネットで丹念に検索する。驚いた。ミュンターが出てきた。1997年にセゾン美術館と愛知美術館で「カンディンスキーとミュンター」展があっている。ここでミュンターについて分かってきた。想像通りだ。ミュンターは美術学校「ファーランクス」の生徒であり、小旅行に出たとある。では、あの写真に写っているんだろう。1904年、妻と別れ話をしたあと、ミュンヘンを後にして、ミュンターと旅に出る。オランダ、チュニジア、イタリアと5年に及ぶ。そして1914年第一次世界大戦が始まり、二人でスイスへ逃れる。その後、何故か彼はロシアへ一人で帰る。ミュンターは再会を願い、スウェーデンで彼を待つ。そして会えたのが1915年のクリスマスだ。次の3月までに同じ画廊でそれぞれが個展を開き、別れる。ミュンターも画家であったのだ。1944年にカンディンスキーは亡くなり、戦後1957年に、ガブリエーレ・ミュンターは守り続けた数百点の二人の作品をミュンヘン市に寄贈する。芸術にはそれを描かしめる、時代的な背景と個人的な背景がある。「恋愛」はしばしば大きな背景になっている。

――しかし、彼の絵のみではそれとは伺い知れない。


             ◎ノノ◎
             (・●・)

        「また、お会いしましょ。」 2002年4月7日更新


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